前回からの続きです。
昔を振り返って、以前は「自分という存在はこうあるべき」というような思いこみが強かったと思います。なぜか持っている高い自己基準、いらぬプライド。
この思いこみについてはどこからきたのか、今まで色々なシリーズでじっくり見てきましたね。
後天的に強くなった「目標達成気質」。目標を設定して、そこに向けて努力し、達成感を得たい(自分を認めたい、周りからもその成果を認められたい)という欲。
その気質が強く自分の一部となってしまったのは、やはり大学受験かなと思います。予備校に行かなかったので、勉強も自分で量・質をコントロールしてやっていく目標達成気質なところがフルパワーで発揮され、それが成功した=希望していた大学に入れた、という成功体験。
その経過は楽しいものでもあったので、それが「自分を苦しめるものかもしれない」とは思えないわけですね。
目標達成気質が悪いわけではなく、上手く使いこなせるかどうか、もしくは「今は使わない」という選択をできるかどうか。そもそも目標の設定を間違えたらかなり危ないわけです(笑)全然違う方向へ、全力で行ってしまう。
これは私の場合、偽のワクワクだった法曹を目指すというところでやってしまいます。
他にも「こうあるべき、そのためにはこれを頑張ってやるのだ!」というような自己改革、自己自律?が大好きでした。線路をどんどん引いてしまう。でもそれが自分にとって本当に「良い」ことなのかは分からない。
思いこみに縛られたイメージからでてきた目標もたくさんありました。自分のプライドを保つためだけの目標。そして目標を達成できなければ自分を責める、という癖を持っていれば止まらない自己否定・自己嫌悪ループに陥ってしまいます。
「努力して頑張るのが当たり前、そして望む結果をだすのよ」という、この日本にそこはかとなく流れている同調圧力は非常に危ない気質なのです。(笑)
自分ひとりの努力じゃどうにもならないことは、たくさんたくさんありますね。何かがするする順調に進む時、それはタイミング、他の人の思い、周りの支え、体調、いろんなものが重なっています。努力は選択できても、自分が望む結果はコントロールの及ばないものであることがほとんどです。
今は、「自己否定をすることなく」目標達成気質を楽しめるようになりましたが、あまり使っていないのです。
だいたいの見通しをイメージする、そのために必要な準備はする、その準備をいついつまでにやる、とプラン(短期目標)を考えたりはしますし、意図は作ります。
でも、ゆとりを持ってとてもゆる〜く置いておく。
キチキチプランを作っても、娘に何かあれば即吹き飛んでしまうわけで。柔軟に変更もするし、思ったように進まなくても、それがベストだったのだ、と命の流れを信じられます。さらにその途中でどかーんとインスピレーションが降ってきて、プランが変わることはしょっちゅう。ここ数年はその繰り返しでした。
だからもう昔のような詳細なプランを作ることはほとんどありません。
ただイメージ・意図は大事、と感じています。
人は意識して見ようとしない限り見えないので、心の照準を合わせておくことで、いろんなことに敏感に気づけるようになるからです。
「赤いものを探して!」と意識を合わせてはじめて、たくさんある膨大な感覚情報を取捨選択して「赤いもの」に気づける。意識しなければ浮かび上がってこないのです。
今の自分にできること、できないこと。
それは人生のタイミングによって違います。
そこを冷静に見極めて、自分を否定することなく受け入れること。
以前は自分の強みだと思っていたものが、今はそれが足かせになっているのかもしれません。
自分にとっては「当たり前(自然)」「必要」「自分の長所」だと思っていることを疑ってみるのです。
今の自分をつくりあげてきたものを手放すことは、寂しさもあるし勇気がいりますね。過去の成功体験を手放し、「実はそんなに楽しくなかったのよね、つらかったのよね」と苦しさのおおもとを見極めることができたら…
終わりのない比較の苦しみから抜けることができたら…
自分にとっての自由を、新しく感じられますよ。
そしてうんとラクに生きられるようになります。
必ず!(╹◡╹)
次回に続きます!