前回からの続きです。
私たちは昨日の思考(=言葉)をいつも持ち運んでいます。過ぎたことを何度も反芻し、ぐるぐる考えてはエナジーをもっていかれ、ぐったり。。
言葉=思考は、「A」と決めれば「Aじゃないもの」を自動的に生みだしてしまいます。何かを良しとすれば、そうでないことは悪になる。「勝ち組」を決めれば「負け組」も生みだしてしまう。自分にとっての判断が増える度に、自分にとっての悪が生まれ、私たちはどんどん苦しくなってしまうのです。
私はもともと、勉強でも人の気持ちでも、「全てを理解したい」という欲が強いタイプでした。盲目的に何かを信じる、っていうことはできない。(でも恋愛ではそうならざるをえない笑)
理屈が欲しい、理由付けが欲しい。AだからB、となってほしい。いやあ、これは大変な欲ですよね(笑)思考はとどまることを知らず、スッキリするまで考え続ける。理屈をつけて納得したいから、スッキリしたいから。
突き詰めれば、全てを理解して「思考するのをやめたいから」。
「平和な、明るい心で穏やかに毎瞬を過ごしたい」
これが本当の望みなのでした。今目の前のことだけに集中している状態。 昔はあきらかに思考の使いすぎで、アップダウンが激しすぎて、とにかく心の疲労感が抜けなかったのです。
言葉には限界があり、制限があるということをお伝えしてきましたね。思考はつまり言葉です。言葉には完全性はなく、人の数だけ思いこみ(=その言葉によって連想するイメージ)があり、そのことがコミュニケーションをより難しくし、自分の中に混乱を引き起こすこともあります。
絵ならありのままを静かに伝えられるけれど、言葉だと
「日陰に咲いている一輪の白い花」…
とても具体的に思い浮かべられますよね。
つまりそれ以外を思い浮かべづらくなる=制限がかかる、ということです。言葉、思考、それが悪いわけじゃなくて(実際、とても便利でコミュニケーションにはかかせません)、そういう働きがある、ということ。
十分に意識しておかないと、すぐにのまれます。
言葉によって固められた思考は「わたし」ではないし、訪れては去っていく「言葉によってラベルを貼られた感情」も「わたし」ではないのです。
確固たる「わたしという存在」はどこにもいません。
ただいろんな電気的信号が脳の中を流れていて、毎瞬変化し続けています。1秒前に感じたことが次の瞬間には変わっています。あなたは1年前とも違うし、1週間前とも違う。
毎瞬、全く新しい存在。
これから何をするのも自由です。自由に変えていいのです。上手くいかなかったことは、また今から始めたらいい。「でも、今までこうだったから・・・」と過去の状態に執着することなく、新しい「今」を生きていいのです。
頭の中の思考は、今までしてきた反応が癖になって自動的に起こっているだけです。さらにその時の気分にも左右されたり、とにかく「全く意識的ではない」状態。無限の連想ゲーム状態です。まず、自分のパターンに気づきましょう。同じような反応ばかりしてるな、同じようなことばかり考えているな、と。
明確に今この瞬間の心の動きを観察できる静かな自分、それこそが「わたし」。
「わたし」という意識。全てが通り抜けていく、空(から)の自分です。
この「わたし」を常に意識し、自分の思考パターンから距離をおいて、何が今「わたし」を満たしているのかを知り、「今」を感じつくせること。それが私の感じる思考からの自由です。
そして選びたい現実の見方を選ぶ。「今」はいつだって中立で、流動的です。どんなふうにだって「新しく解釈できる」し、「そのままにしておく」こともできる。
自分次第でいくらでも新しい「今」を開けます。
まず一番意識してほしいことは、「今にゆったりくつろぐこと」です。
過去の記憶と戯れ、そのまま「今」に持ちこみイライラクヨクヨしたり、未来のことを考え、また気をもんだり、 結局何をするでもなく言葉遊びで1日が終わる…
とても疲れます。体を動かすのは気持ちいいけれど、思考を使いすぎるとぐったりしてしまいます。「体に合っていない行為」だからです。
「今」はいつだって新しく、何も問題はありません。私たちは呼吸をし、身体は今に常に生きている。「今」にくつろげば、窓から入る心地よい風に気付いたり、いい匂いに安らいだり、月が綺麗にでていることに感動したり、美味しいお茶を楽しめたり…あっという間に幸せな気持ちになれます(*^^*)
幸せは「今この瞬間」を味わう中にしかありません。
例え今、この大変な時期の中でも。
言葉を使わずに、ただ今この瞬間感じていることを、ちゃんと感じつくすこと。外からの刺激でも、内側(心)の感覚でも同じです。そうすると、体は本当に安らげます。
そして言葉や思考を使って判断することを少しの間だけでもお休みしてみましょう。全てをただ、「自分の心が心地よくなるように」受けとめて、心をラクにしてあげてください。
心が見せてくれるもの、その感情を「いかん!!」と判断しないで、出しつくして、ただ見守り、流してしまいましょう。自分が網になったように、流れる雲をただ見ているかのように、全てを通過させるくらいでちょうどいいのです。
感情はこちらから握らない限り、全ては消えて収束していきます。
観察される感情がいなければ、観察する自分も消えます。
そしてこの心はゴールなんかじゃなく、そこからようやく自分の本当の「欲」が見えてきます。この人生で、やってみたいことを、ようやく素直な心で認めてあげることができるようになります。
私の人生が大きく動いた時、そこにはいい意味で私の意志はなく、ただ目の前にあること、その流れを「なんか良さそう!」と思って選んでいただけだった、そんな気がします。
決して「AだからB、きっとCに繋がるはず!」とか小賢しく(笑)思考を使っていなかった。思考に限界があることを認めて、降参してしまう方がずっとラクでした。
そうすると、自分よりずっと大きな命の流れが、言葉では表現できない何かが、確かにあるのではないか、とより強く感じられるようになったのです。
分からないことは分からない、とそのままを認めて、ただ今を大切にする。
思考の中に自由はなく、
ただ感じること、
全てを愛することで私の心は解放されました。
心に「正しい状態」なんてありません。
自分にとって、心地よい状態であればいいのです。
あなたにとっての、「心の自由」とは何でしょうか。
続きます!